2009年7月22日水曜日

奉公人1のぬけ参り(後編)  ~夫婦岩と五十鈴塾、内宮参拝~


二見浦の宿坊で一夜明け、一行は夫婦岩へ。


昔の人はここで禊をしてからお参りに行ったとされているところです。




天候に恵まれた日は、二つの岩の間に中央に富士山が望めるそうな!



興玉神社でお参りし、夫婦岩を見物した後そこからバスで一路、内宮方面へ。

内宮の参道前の「おはらい町」で是非立ち寄りたいと思っていた場所があったので訪ねてみることに。

鈴の鏝絵がかわいらしい日本家屋…
「五十鈴塾」というNPO法人さんで、文化交流の場として和風家屋を提供している処なのです!

「神田の家」がまだ移築工事をしている頃から、私たちの先をゆく活動をされている団体として興味津々でHP等拝見していたのでした。 →http://www.isuzujuku.org/
塾長さんはもともと伊勢神宮の神主さんだったということ。何となく少し緊張しながらお話したのですが…

…なんと、お話の中で塾長の矢野さんは伊勢神宮でご奉仕される前、神田明神にいらしたということが判明!三重という遠い地で、なれ親しんだお宮の名前を聞くなんて、思いがけないご縁に嬉しさもひとしおでした。
矢野塾長のご好意で、特別に建物の2棟ご案内して頂くことに。
町の方や有志の方たちとの協働で運営しているとのことで、左王舎のきれいなお庭もボランティアさんたちと力を合わせて作ったのだそう。

きれいに管理されています。神田の家もお掃除頑張ろう。



神田の家と規模も運営も違うけれど、やはり土地に合わせた活動をしてゆくのが一番求められるお役目だろうな…と再認識。

神田の家のテーマはさしずめ、江戸、東京、商家と…将門公!でしょうか。

将門公と言えば、伊勢の地方では門前に「蘇民将来子孫之門也」と書かれた木札が一年中かけられているそうです。これを略して「将門」にしたところ、平の将門公と混同する、と騒ぎになり「笑門」という言葉が生まれたという説が!(矢野塾長御墨付き)こんなところでも将門公の名前を聞くなんて!となんとなくまた嬉い奉公人1。

さて、伊勢参りのクライマックス、「内宮さん」は人がいっぱい!

皇大神宮とも呼ばれる、皇室の先祖神「天照大御神」の鎮座するお社です。「日本の総鎮守の神様」と言われている神社のもとじめなんですね。 猛暑の中、老いも若きもギャルも外人さんも…とにかく人出にあふれかえっていました。
古事記でおなじみの神様なので、なんとなく石ノ森章太郎の「マンガ日本の歴史」のイラストのアマテラスオオミカミ様が浮かんできて親近感を覚えてしまいます。あんまり難しいことはわからないけれども、こんなに美しい神社が長きにわたって脈々と受け継がれ、守られていることに感動してしまいました。日頃、文化財の保存のお仕事をしているだけに。

さて、小学校の修学旅行で伊勢参りデビューをした、という名古屋の友人よりもフランス少女の方がよく神道の知識を身につけていることが判明。
奉公人1、こっそりと「巫女さん研修うけさせてもらってよかった。。」と胸をなでおろすのでした。

内宮の表玄関に架かかる「五十鈴橋」のほとりには、はかの松下幸之助氏が奉納したというお茶室があります。このお茶室、神田の家の移築工事をしてくださった「中村外二工務店」施工なのです。

今回のお伊勢参りはこのお茶室を見るのも楽しみにしていたのですが…参道からはほとんど見えませんでした。なんたって天皇家の方々の迎賓館だそうで!もんぺ姿のおばさまがせっせとお掃除している様子を生い茂る木の間に垣間見ることができました。

神田明神の随神門も、浅草の雷門も同氏からの奉納ですよね。信仰の篤い方によって文化が守られていたりするんですね。(松下政経塾もあるし…世が世なら吉田松陰のように神様として祀られてたのかしら…経営の神様ってゆうし。)


帰りにはまだ時間があったので、五十鈴川沿いをお散歩。



千年前の人もこの川のほとりを歩いてたんでしょうか。悠久のロマン!だわ…



なんとなく名残惜しく…名古屋の友人と再来の約束をして伊勢を後にしたのでした。




私:  「また来ようね」


友人: 「うん」




二人: 「次は  お伊勢さん健康マラソンで  …!!」



… 完 …


秋のお伊勢さん健康マラソンエントリーご希望の方はコチラから ↓ 
http://www.city.ise.mie.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1212994398859&SiteID=0


☆外宮、内宮の美しーい景色は、実際に現地にいらして堪能して頂こうと掲載自主規制してみました。興味のある方は是非!!行ってらしてください。

奉公人1のぬけ参り(前編) ~外宮とフランス少女~


江戸時代、「一生に一度はお伊勢参りを」と大流行したお伊勢参り。
道すがらのお店や個人の施行により、手持ちのお金がたとえわずかであってもお参りできたことから「おかげ参り」とも呼ぶそうですが、家族やお店の人にも内緒でお伊勢参りにいくことをとくに「ぬけ参り」と呼んだそうです。

…ということで、奉公人1は10日の京都の首塚のお祓い出張の帰りにこっそり「ぬけ参り」としゃれこみました!

「旅は道連れ世は情け」 という言葉がありますが… 初日は京都のお宿で出会ったかわいいフランス人の女の子と連れだって11日の午後に伊勢市入りすることに。

まずはさっそく「外宮(げくう)」さんへお参り。

日差しも柔らかいお参り日和。二人は自然と言葉少なに境内へ。

「外宮さん」(近隣の方たちは“さん”付けで呼ぶそうです)は衣食住を司る神様、「豊受大御神」さまを祀りしているお宮です。

御正殿の門の入口には白い幕がかけられていて、奥のお社は見れません。社新撮影も禁止です。この「秘密のベール」越しに、日頃の感謝をお伝えしました…食事の神様…むしろ万年ダイエッタ―を自称する自分を改めて恥じる瞬間でもありました。


緑のグラデーション。花は見かけないけれど、「風薫る」という風情の景色の中、 日本最古の建築様式と言われる「唯一神明造り」のお社が静かに鎮座しておられました…
行く足の先に落葉がはらりと落ち、 フランス少女の「これは神さまからのメッセージかな」 …なんて、かわいい発言に癒されつつ…
日本語勉強中の彼女は、とっても詳しく神道のことを知っていました。
建築様式のことも学んおり、外宮さん千木(屋根の飾り)を見て


「コレハ男ノ神様デショ!」と一言。


…と、なにやら思い出したかのような複雑な表情に。

「アマテラスハ女ノ神様ノハズナノニ…」 


…どうやら彼女は去年もお伊勢参りに来ていながら、外宮さんしか知らず、内宮を参らずに伊勢を後にしてしまっていたそう。なので今回は一年越しで内宮参拝。 友達が出産をひかえているので安産のお願いをするんだ!とのこと。
うんうん。国籍、人種違えども、お願いすることは一緒よね。


夜には名古屋の友人と合流。


翌日は二見浦で夫婦岩を拝んだ後(一同未婚)いよいよ天照大神の祀られる内宮さんへ、イザ!

 …続く…




神明造」のお社といえば、神田明神の末社の末廣稲荷神社と三宿・金刀比羅神社もこの造りですね。
個人的には末広稲荷のぷっくら感が大好きです…!必見!!

(お詫びと訂正:なお、唯一神明造りは神宮のみの作りなのだそうです!当初、上記2社の説明も唯一神明造りと紹介してしまいました~失礼しました!)

2009年7月14日火曜日

京都の首塚

京都の四条通りと綾小路通りを結ぶ、小さな路地を南に入ったところにある「新釜座町」
ここは、平安時代に平将門の首が晒された場所で、後に空也上人が供養のために道場をひらいたとされています。
空也上人は印として石を建て、それをご神体としたといわれています(村上春樹著 『平将門伝説』 より)
現在は、民家の壁に塗りこめられたように祠が残されています ↓


祠を内包している家屋の管理者が変わる、ということで、神田明神の神主さん2名と、関係者や町の方たちの数人でこのたび神事が行われました。

平安時代には朝廷にはむかったために「逆賊」と呼ばれ、江戸時代は徳川幕府により江戸の鎮守神となり、そして大政奉還の後は天皇に逆らった「国賊」として排除された平将門。
「民衆のために立ち上がった英雄」としての評価もある関東とは異なり、京都では実に長きにわたって誰もが口を閉ざし、タブーとされてきた人物だったようです。
ただ、そんな土地にあっても、その人物をまつったとされる祠が遺されているのが人心と歴史の面白さ。


戦国時代に、神田明神がこの祠をお祀りした、という記録は残っているそうです。
さすがに当時のものではないのでしょうけれど、去年この祠をあけた際には神主さんに「神田明神のこんなに古いお札は見たことがない」と言わしめたお札が入っていました。
(その古いお札は今回お宮にお渡しすることになり、現在は昨年の祭祀の際に収めた新しいお札しか入っておりません)

無事に祠の祭祀を終え、家屋の本体の方でもお祓いが行われました。(どちらが付属か、もはやわかりません)

家主不在でただ沈黙していたこの祠ですが…

将門公に失礼のないような祀り方がされることを祈っております。

さて、ご神体とされていた石はどれなのか??私たちの研究は続きます。

空也上人が京都でひらいた道場についての資料や情報お持ちの方、是非教えてください~。


2009年7月2日木曜日

神田鎌倉町







梅雨の天気図通り傘マークが並ぶ6月下旬、鎌倉町の皆様が「神田の家」に来て下さいました。    夜中降っていた雨も朝には上がり、(日頃の行いのお陰) 皆さんの来訪で明るく活気のある日曜日になりました。
鎌倉町と言えば元々この神田の家(遠藤家)があった場所。

当時の姿をご存じの方も多く、家は勿論の事、2階に置いてある古いアルバムを見ては昔を懐かしんで思い出話に花が咲きました。


今は手軽にデジカメで多くの物を撮り、CDにして記録する事は出来ますが、カメラ、 それも白黒の時代の写真は何とも言えぬ味わいと深みを感じます。
色がない分、自分の記憶の中で様々な事を思い出しながら、自分なりの色をつけて見るからでしょうかね、。

勿論、私の幼少の時も白黒でした・・。  しかもサイズが小さい。

古き良き時代、、  この神田の家は昭和と言うより江戸の流れが詰まってずっと 時代と共に生きて来ている、。  そしてこれからも生き続ける。 


写真ではなく、そのもの自体が今もある事に改めて感謝ですね。

神田鎌倉町の家、皆さんと一緒に大事に育てて行きたいと願っています。